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衆議院議員 税理士 あんどう裕

ひろしの視点

HIROSHI’S POINT OF VIEW

ひろしの視点

2017/12/03

今回の衆議院選挙に見る日本政治の危機

今回の選挙で私が感じたのは、日本の政治は大変な危機的状況にある、ということです。

昨日今日できたばかりの、主義主張もはっきりしない政党(規約や綱領もはっきりせず、政党と言って良いかもよく分からない程度のもの)に、長い間国会議員として活動してきたいわゆる「ベテラン議員」が相次いで参加表明をしたこと。マスコミが、こぞって「自民党の対抗勢力」といわんばかりに一気に持ち上げたこと。一時は支持率が膨れ上がって、政権交代もあるかという雰囲気ができそうになったこと。これらの現象を目の当たりにすると、本当に日本の政治状況は危機的であると感じます。

政治は、遊びではありません。思い付きでやるものでもありません。政治家は当選しなくてはならない、という気持ちは分かりますが、「当選第一主義」で選挙をやってしまっては、誰のために、何のために政治をやっているのかわからなくなってしまいます。ある野党議員が、新しい党の公認をめぐって「それぞれの議員の人生がかかっていますから」と発言をしていましたが、これが今回の騒動の本質を表しています。議員の人生のための選挙ではないのです。国家国民のための選挙であり、そのための政治なのです。政治が方向性を誤ると、国民の生命や国家の命運すら危うくするのです。もう少しまともに冷静に考えられないものかと、本当に残念な気持ちでいっぱいです。

幸いなことに、投票日までの間に新党に対する期待感が一気にしぼみ、むしろ失望感に変わったので、選挙結果としては自民党大勝という形になりました。自公政権で絶対安定多数を得たことは、政治の安定のためには好ましいことではありますが、多数があるからこそ、政権運営は謙虚にしなくてはなりません。そのことは肝に銘ずる必要があると思います。

そして、マスコミが新しい党を持ち上げた理由は「自民党に対抗する保守政党」として、でした。憲法改正や安保法制に賛成するが、しかし自民党以外の保守政党が出てきた、という形で持ち上げようとしていました。果たして、この新党は「保守政党」なのでしょうか。新党設立にかかわる人たちは、憲法改正や安保法制賛成を口にしていましたが、同時に「日本をリセットする」ということも発言していました。本当の保守主義者は「日本をリセットする」などという発言は絶対にしません。「リセットする」ということは、すべてをゼロにして一からやり直す、ということです。保守主義とは真逆の思考であり「極端な左翼思考」であることに、自ら保守主義者を名乗る政治家や政治評論家をはじめとするマスコミは気が付かないのです。要するに、保守主義とは何かをわからずに保守主義者といわれる政治家をやり、保守主義とは何かを知らずに政治評論をしている、ということなのです。日本の政治環境が危機的状況にあるのは、ここに大きな原因があります。

そもそも、憲法改正や安保法制に賛成したら「保守」であり、護憲と安保反対を主張したら「保守ではない」とする日本の分類基準がおかしいのです。保守主義は、憲法改正や安保法制とは全く関係ありません。現代人の浅薄な価値観(思いつきと言ってもいいかもしれません)を否定し、長い間培ってきた経験に基づく常識を大切にするのが保守主義の基本的な考え方です。

そして、世界の常識からすれば、「憲法改正」を主張するのが本来は「革新」で、「護憲」を主張するのが「保守」なのです。ところが日本では、この立場が逆になっています。それはなぜかといえば、今の日本国憲法は、日本人が長い間培って来た経験に基づく常識を成文にしたものではなく、外国人が極めて短期間で作った外国製の憲法であるからです。日本人の価値観に基づいて作成されたものではなく、占領中に米国人が敗戦国であった日本に与えた憲法であり、日本人の伝統的価値観とはそぐわないものであるからです。極めて少数の外国人が「理想の憲法とはこうあるべきだ」という考えで作ったものだからです。保守主義者は、理想を憲法に書き込もうとはしません。そのため、保守政党である自民党は党是として、日本人の伝統的価値観に沿った「自主憲法の制定(憲法改正ではありません)」を唱え、革新政党は護憲を唱えるのです。

今、世界の政治は「保守主義」を求めています。これは、第二次世界大戦の後、近代化の流れの中でさまざまな社会実験を経験し、社会の分断や行き過ぎた個人主義、暴走する資本主義の限界などが露呈しつつあり、人々がそれに気が付き始めた、ということなのだろうと思います。社会主義国家の盟主であったソビエト連邦が崩壊し、社会主義計画経済はなかなかうまくいかないことが実証されました。それも社会実験のひとつと言えるでしょう。また、アメリカという国も自由、平等、博愛、基本的人権の尊重、徹底した資本主義など、新しい価値観(いわば理想)のもとに建国された「人工国家」ということができますが、今、国内の格差の拡大や人種差別が露呈するなど不具合が明らかになりつつあります。アメリカという国には残念ながら長い間かけて培って来た先人の知恵の結晶としての価値観が存在しないので、これから迷走する可能性が高いと私は考えています。壮大な社会実験とされたEUも分裂の危機にあり、人間が安心して暮らすことのできる社会とはどのような社会なのか、改めてその社会像が求められています。だからこそ、現代人の浅薄な価値観によるのではなく、長い歴史の中で培われた常識に基づいて社会を構築していく「保守主義」が求められているのです。

なぜ、保守主義なら社会が安定するのか。それは、長い時間をかけて先人たちが試してきた経験から培われた慣習や常識を重んじることが人々の安心をもたらし、納得してもらうことができるからではないでしょうか。保守主義とは、さまざまは社会実験を繰り返してきた結果としてたどり着いた「人間社会をうまく運営する方法」ということができるでしょう。

例えば、「能力主義」ということが良く言われます。日本型経営の年功序列型はだめで、徹底した能力主義を導入している米国の企業には勝てない。能力主義を導入したほうが企業も活性化するし、能力に応じた人事評価が必要だ、という説にはある程度説得力があります。

しかし、この能力主義で問題なのは「人の能力を正確に測ることは誰にもできない」というところです。誰にもできない「正確な能力評価」を前提とする能力主義を導入しようとしても、どこかに必ず無理が生じます。日本型経営では、年功序列が優先され、能力主義が導入されていないからダメなのだということがよく言われますが、年功制の「あの人のほうが先輩だから」という理由には誰もが納得する一定の説得力があります。

たとえ能力的に後輩の方が優れていることが明らかであっても、先輩を立てていたほうが組織として仕事がうまくいくという事例は、嫌というほどあると思います。逆に、能力主義を徹底すると、他人よりも自分の業績を上げようと全ての同僚をライバル視してしまい、職場の一体感が損なわれるという事例も散見されます。また、先輩が技術を後輩に教えるにしても、能力主義が導入されていると、技術を教えたがために後輩のほうが仕事ができるようになってしまうので、先輩が後輩に技術を教えないということも発生します。これでは、技術の継承と発展は見込めません。

別の事例を挙げてみると、町内会や自治会も最近は入るも入らないも個人の自由ということになっています。しかし、本来は地域に住む人はお互いに助け合いながら住むのが「当たり前」です。昔からの住民が住んでいる地域では、古くからの祭りなどの行事が残り、しきたりが残っています。面倒だけれども、これらの行事に参加することにより地域の絆が深まり、人間関係が強くなっていきます。

ところが、新しい住宅地などでは、個人の権利や自由が尊重されるために町内会や自治会に入らない自由も保証されています。しかし、町内のお付き合いは煩わしいけれども、地域の安心・安全や、住みやすい町づくりのためには必要な組織です。基本的人権の最も大切な部分である「生存権」を確保をするためには、地域の絆・地域社会の関わり合いがとても大事なことだと思いますが、生存権よりも個人の判断の自由が優先されてしまい、結果として孤独死などの社会問題を引き起こしているのではないでしょうか。

日本では最近特に「日本の古い価値観は新しい時代にそぐわない」と言われ、憲法にも新しい価値観を書き込むべきだという意見があります。しかし、新しい価値観とは、まだ試されていない、十分に国民に浸透していない感覚であり、それこそ社会実験なのです。うまくいくかもしれないし、うまく行かないかもしれない、ギャンブルみたいなものです。政治家が自分の価値観で「憲法にこれを書き込みたい」などというべきものではありません。憲法には国の理想を書き込むものだ、という政治家もいますが、それは保守ではなく、革新政治家がいうセリフです。私は、保守主義者であれば、理想を憲法に書き込むというようなことは厳に慎むべきだと思っています。

いずれにしろ、日本や世界の政治は、いま保守主義を求めていることは確実です。日本でも、本当の保守主義を再興し、いたずらに「改革」を叫ぶのではなく、社会の安定のための、人々の安心のための社会の仕組みはどうあるべきか、社会の常識はどうあるべきかを考えなくてはなりません。世界で最も長い歴史を持つ日本が、その範を世界に示す最もふさわしい国だと思います。

-「ひろしの視点」第38号(2017年10月)より-